平成9年卒

内藤 裕紀

ドリコム代表取締役社長

正解の道はひとつじゃない。

海城には高校から入学しました。中学生の時は陸上に熱中していて、区や都の代表に選ばれていたので、高校受験はスポーツ推薦の話もありました。でも、成績も良かったので、折角ならと思い、親の方針でもある進学校という条件で、3教科で受験できるところを探しました。その結果、親と相談して海城を第一志望に決めました。

高校入学後も陸上部に入ったんですけど、当時海城の陸上部は強くありませんでしたし、そもそも校庭で練習ができなかったんです。それで、近くの戸山公園で走っていたんですけど、人通りがあるのでタイムも計れないですし、スパイクを履いた練習もできませんでした。そんな中で試合に行くと、中学のときに自分より遅かった友達が速くなっているのを目の当たりにして、この環境で続けていても、悔しい思いが募るばかりだなと思って、高1の途中で辞めてしまいました。中学のころから部活と塾だけの生活を送っていたので、とても解放された気分になって、一転高校生活を思い切り楽しもうと思いましたね(笑)。

 

とにかく問題児

海城高校ではとにかく問題児でした(笑)。高校生活の中でもエポックメイキングなのが、高1の終わりに家出をしたこと。いろんなものが溜まっていたのか、バイトをして貯めたお金で一人暮らしを始めました。先生には、本当にずっと怒られていましたね。文化祭ではスピーカーをたくさん持ち込んでクラブにしたり、読者モデルをやっていたので髪の毛を赤や緑に染めたり。修学旅行でも、先生の部屋の前で正座をさせられました。先生にしてみれば、問題児のイメージしかなかったと思います。

でも、先生方はそんな僕を切り離す感じではなくて、愛情をもって接してくれていたなと。怒ってくれているんですよ。普通だったら、「もうほっとけ」って無視すると思うんですけど、あきらめずに向き合ってくれていた。そうでなかったら、そのまま退学していたかもしれないですし、今に至っていない可能性は十分にあると思うんです。そういう意味で、僕にとっての真の「母校」は海城だと思っています。

また、当時の友達とは今でも付き合いがあって、中には一緒に働いている人もいます。高校時代を真面目に過ごすというのも一つの道だと思うんですが、一緒にやんちゃをしていた友達が今でも仲間だったりするので、そういった高校生活もいいんじゃないかなぁ。

 

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どうしていったら、自分らしく生きていけるのかな。

高校時代を振り返ってみると10代の頃から、自分のキャリアプランを考えて努力している人がいる環境は良かったと思いますね。先日、当時クラスで成績が1番、2番だったヤツとご飯を食べに行ったんですよ。1番のヤツは官僚に、2番のヤツは弁護士になると高校時代から言っていて、本当に官僚と弁護士として活躍している。そういう奴らがクラスにたくさんいて、それぞれの目標を追い求めている。そんな中で、自分は何を目指して、どうしていったら自分らしく生きていけるのかな、と当時よく考えていました。そんなときにふと目に留まったのが、日経新聞に掲載されていた経済シンポジウムです。会社経営者がたくさん参加していたのですが、当時は「ベンチャー」なんて単語もそれほど浸透していなかったので、自分で会社をつくっている人たちがこんなにたくさんいることに驚きました。そして、その人たちの話を聞いて、これが自分らしく生きていける道なんじゃないかと感じました。

文化祭などで何かを生み出したりすることはすごく楽しかったですし、自由な高校生活のおかげで他の人と違う道をいくことに対しての抵抗感も無くなっていて、むしろそっちの方が楽しいんじゃないかと。そんな風に考えた結果、大学に入って会社をつくって社長になろうと思うようになりました。父が関西出身だったので、東大よりも京大にいって会社をつくろうと。ただ、高校生のときはまったく勉強していなかったので、その時の偏差値は30台。どちらも選べるような状況ではなかったんです(笑)。結局浪人することになったんですが、予備校にも行かずに毎日バイトに明け暮れて…という生活を送りはじめてしまいまして(笑)。9月になってこのままではマズイと自分でカリキュラムとスケジュールを組み、終わらなければ睡眠時間を削るというルールをつくり、勉強を始めました。本当にパツパツの状況でしたけど、目標だった京大経済学部に合格しました。

 

もっと変わる。おもしろくなる。

京大入学直後は、卒業してから会社をつくろうと思っていたんですけど、会社をつくるのに役立つだろうと考えて選んだ経済学部の授業が、会社の立ち上げとは全然紐づかない。それなら先ずは設立資金を貯めようと塾講師のバイトを始めました。1年の前期試験までは大学に通っていたのですが、その後、起業に集中していった感じですかね。

起業するにあたって、インターネットをフィールドに選んだのは、インターネットに無限の可能性を感じたから。そしてインターネットで世の中を変えるなら、コミュニケーションと検索の2つでいこうと。僕たちは、コミュニケーションツールが固定電話からポケベル、そしてPHSから携帯電話へと変化をとげて生活が劇的に変わっていくのを目の当たりした世代なんですよ。だから、無限の可能性を持つインターネットを利用して、コミュニケーションを軸にビジネスができれば、もっと世界は変わる、おもしろくなると思いました。

そこで、まだ、2000年の頃ですけど、今でいうFacebookのような学生同士のコミュニティサービスをつくりました。その後、大学を休学して有限会社を設立し、ブログサービスなどを始めました。

そんな時、名だたるIT企業の社長を前に講演する機会があったんですが、参加されていた堀江貴文さんやサイバーエージェントの藤田晋さん、GMOの熊谷正寿さんと話をする中で「内藤君は上場しないの?」という質問が。当時は上場が何かもよく分かっていなかったのですが、話を聞くうちに上場するとおもしろいんじゃないかと感じました。それで、京都に戻って役員たちと相談し、上場へ向けて動き出しました。そのタイミングで、会社の成長に集中するために、大学を退学することにしました。

その後、念願叶って27歳のときに上場しましたけれども、周りの大きな会社を経営する社長をみて、当時はもっと上に、という欲求が強かったですね。自分のやっていることはまだ全然小さくて、大きな差があると感じていたので。

生き急いだ人生を送りたいという気持ちは今でも年々強くなっています。特に8年ほど前にギランバレー症候群という難病にかかり、体を動かすこともできずにベッドで横たわるだけの日々を送りました。最初はずっと天井を眺めながら、「ずっとこのままだったらどうしよう」と毎日考えていたんですが、そのうち「逆に治ったら、何がしたいかな」と考えるようになった時に、今の会社で新しいサービスをつくったり、もっともっと生き急いだ人生を送りたいなと思いました。
その後幸いにも完治して、堀江貴文さんから誘われたことがきっかけで、トライアスロンを始め、今では趣味の一つになっているんですが、レースに出る度に「何で出ちゃったかな」と思いながら走ったりしています(笑)。でもずっと続けているのは「やっぱり無理かな」とか「できそうにない」ということを、力を振り絞って、鼻水を垂らしてでも成し遂げていくのが好きなんですかね。今年ちょうど40歳になりましたが、あと何年、新しいものを生み出し続けられるのかわからないけど、一年でも長く、世の中に対して新しい発明を出し続けるようにしたいし、そうなるためにはどうしたらいいかということを日々考えています。プライベートでも仕事でも、どんどんチャレンジしていきたいなという感覚はありますね。

 

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自分の道を見つけて歩いていく

昔の海城は「東大にいく」という正道的な1本の道があって、みんなで同じ方向を目指して切磋琢磨するという感じでしたが、今は、僕のような人間を講演に呼ぶという点で、多様性を重んじていると感じます(笑)。カリキュラムに関しても、僕もお手伝いさせていただいたプログラミング教室や、留学支援など、変化する社会において生徒が活躍できるように多様性を重視している、と感じますね。今は、以前のように東大合格者数日本一を目指すだけでない海城のオリジナリティが出ているので、今後は一層、独自の魅力があふれる学校になっていってくれたらと思います。僕も微力ながらもお手伝いできたらいいなと思っています。

海城生に伝えたいのは、正解の道はひとつではないということ。僕のこれまでの人生はそれを体現していると思っていますし、みなさんにもそれぞれ自分の道というものが絶対にあります。自分の道は早いうちに見つけるほど叶う確率が上がるので、僕が自分らしく生きることを求めて、学ラン姿で経済シンポジウムに参加したように、学校生活以外にも目を向け、いろいろなことを経験して広い視野をもつようにすればいいんじゃないかな。

起業に関して言えば、今は僕が起業した時に比べて、社会が本当に受け入れるようになっています。高校生くらいでも「やりたい」と声を上げた人に対しては、みんなが手伝ってくれる社会になっています。だから、恐れずに、まず声をあげていけば、「おもしろいね」と言ってくれる人や、「一緒にやろうよ」と言ってくれる仲間が見つかるので、最初の一歩として自分の思いを声に出すということが大事なんじゃないかと思いますね。

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内藤 裕紀

ドリコム代表取締役社長