昭和47年卒

杉山知之

デジタルハリウッド大学 学長

社会には「いろんな人」がいる。

大学闘争が繰り広げられ、その波が高校まで押し寄せてきたころ、海城高校に入学しました。海城もバンカラな文化が残っていましたが、自由な校風に変わりつつある印象でしたね。
入ってみて一番ショックを受けたのは、世の中にはこんなにいろんな人がいて、いろんな感覚で生きているんだということ。均質化されずに、個性をそのまま出している人が多かったです。
校内は女の子の目がないから、ほぼ何をしてもいいみたいな感じもあり、早弁したり、先生にいたずらしたり。先生たちもそれに対して、それほどピリピリしていなかった。それに、何でもいいよと言う先生もいれば、剣道の師範でピシッとした先生もいて、先生たちにもすごくダイバーシティーがあった。だから、海城はいろんな人との出会いをすごく感じた場所でした。

芽生え

高1の時は、柄にもなくラグビー部に入りました。でも、大変でしたね、痛くて。今でも、痣が残っていますよ。結局、柄でもないから一年で辞めて、海城の友だちとバンドを始めました。バンド名は “TOMO SUGIYAMAとブルースカンパニー” 。自分の名前を付けるなんてひどいでしょ(笑)。僕はギターを担当していましたが、最初からリードギターで勝とうとかはなくて、人を集めてきて、曲を決めて練習をして。裏方気質はこの頃からですね。高2になると、他校のうまい子たちと知り合いになり、メンバーが他校の生徒と入れ替わったりもしましたけど、上手な子ばかりとやっていました。後々、プロになった子や、『スター誕生』に出て、グランドチャンピオンになった人もいるほどです。海城生ではないですけどね。海城のメンバーは、みんなそれぞれ会社の重役になっていたり、歯医者になっていたり。今でも常に連絡を取り合っていて、そういう友だちと出会えたのは良かったと思います。みんな音楽が好きで、自分なりに主張があって。それでいて、不思議と喧嘩はない。主張し合うのですが、お互いにお互いはそういうヤツだと思って認めている雰囲気でしたね。

文化祭では、バンドのほかに、一教室を使って、音楽と映像のショーをやりました。図書室でアサヒグラフなどに掲載されているベトナム戦争の写真をカメラで撮ってスライドにして。反戦をテーマに、でも音楽はサイケデリックに流れているというような。そういうマルチメディアショーみたいなものをつくったんです。いま思うと、著作権を無視したひどい話なんですけど(笑)、よく一人でやったな、と思います。こういうこと、高校時代から好きでしたね。

10代のこの時期に、僕は共学じゃなくて良かったと思っています。共学だったら女の子となんとか付き合いたいとか、多分そんなことしか頭になかったと思いますけど、男子校だからできる楽しいことをやろうと常に考えていましたね。

大学進学については、高2の時点で、電子工学科に行くか建築学科に行くか、どっちかだと思っていました。音楽が好きだったので、オーディオに興味があり、電子工学科で回路をいじるのもいいなと。一方で、親戚の建築士に図面を見せてもらったりしていたので、建築もいいなとずっと頭の中にあって。でも、1964年の東京オリンピックで建てられた建築物に魅せられて、日大の理工学部建築学科に進学しました。

大学生のころは、オイルショックのすぐ後で、建築設計なんて求人がないという時代。だから、卒業論文は、就職に役立つことをやるよりも、自分の好きなことをやろうと思い、建築音響研究室に入りました。それから、大学院を経て、助手に。Bunkamura オーチャードホール・コクーンホールをはじめ、20を超えるホール設計に携わりました。
 
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MITメディアラボ

助手として8年ほど経ったころ、マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボのような国際的研究機関を日本に設立するプロジェクトが立ち上がり、同ラボに客員研究員として派遣されることになりました。選考開始から半年経っても決まらなかった派遣メンバーに、英語もしゃべれない僕が決まり、まさに青天の霹靂です。理由もわからぬまま、1987年9月に赴任。半年後のある日、所長であるニコラス・ネグロポンテに聞いたんです、なぜ僕を選んだのかと。すると「プレゼンの時、ニコニコしていたのはお前だけだった」と。見ていたのはそこだったのかと驚きました。メディアラボでこの研究をやっているから、この研究を持って帰るというのでは、メディアラボにはならない。ラボはそこに集まっている人で織りなす文化で成り立っている。だから、メディアラボと同じような研究所をつくるのであれば、その文化を持って帰れる人じゃないとだめだ。となると、そこに馴染む人間が最適だと。

では、その文化とはどのようなものだったか。まずは、海城の時と一致していて、いろんな人がいるということ。MITメディアラボは、1985年に設立されたので、僕が行った1987年はほぼ初期のメンバーで、学部、学科、関係なく引き抜かれた先鋭的な人たちでした。いろんな人が居つつも、みんな認め合っていて、それで全体の方向感がピタッと合っている。全体の方向感とは何かというと、未来をつくっているということ、なるべく良い世界にしようとみんなが考えているということ。人間の限界を、コンピューターを利用して押し広げている、いう感じです。それは、僕にとってすごく新しい感覚で。僕はコンピューターを利用してホールの設計等を手掛けていましたが、コンピューターっていうのは本物ではなく、あくまでシミュレーションである。そういう枠組みで捉えていた。ところが、彼らはコンピューターを利用することによって、リアルな世界までを含めて拡張しようとしていた。音楽にしても、単純に打ち込んで音楽を効率的につくるという話ではなくて、コンピューターを利用することによって、音楽芸術をいかに押し広げられるかということを研究している。とてもプラスの方向なんです。その姿勢は3年間で叩き込まれました。

夜が明ける前に

そして、1990年に帰国。当初の目的通り国際的研究所を設立するための財団を発足させるものの、バブルがはじけてそのプロジェクトは白紙になってしまいました。そこで、古巣である日大から声がかかり、講師に。その傍ら、大学内にCGをつくるベンチャー企業を立ち上げました。そうしたなかで、人材育成が急務であることを認識し、専門スクールを設立することにしました。当時は40歳。とにかく無我夢中でした。

初めは、1995年4月に開校しようと考えていたのですが、94年末にPlayStation、セガサターンが発売予定である等、3DCGとインターネットの時代が来ることを知っていました。そこで、どうしても夜明け前にやりたいという気持ちがあったので、半年早い94年10月にデジタルハリウッドを開校しました。当時は批判されましてね。「趣味で学校をつくったヤツがいる」と。出口がない学校をつくるのは良くないというんです。Internet Explorerが登場したのも、翌年の95年でしたから。

デジタルハリウッドを設立した時から、21世紀にはこれをベースに大学院をつくると宣言していました。これはいわば最初のミッションなんです。メディアラボのような研究所をつくるということで、MITに行かせてもらって、向こうの先生にもいろいろ教えてもらったわけですし、その恩はずっと持っていて。
ちょうどその頃、小泉政権から構造改革特区という制度が出てきて、株式会社でも大学や大学院を設立できるようになりました。
株式会社だけど大学院をつくりたい。そう手を挙げたところ、認可までがとても大変でした。なにしろ日本で初めてのことでしたから。何とか無事に、2004年に大学院、大学院を開学した勢いで翌年には四年制大学も開学しましたが、毎日良かったと思っています。人が気づく、気づいて違うものになっていく。人が成長する瞬間を日々目の当たりにしているのは楽しいですね。18歳で入学した子が大学院までいったら、6年後、こんなに成長するんだ、こんなに変化するんだと。本当にびっくりしますね。

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自分勝手に自分を生きろ

クリエイターになりたい中高生も多いと思います。例えばゲームでいえば、やっていて楽しいからつくりたい。そこまではいいのですが、やって楽しいのと、つくって楽しいのはすごく違います。つくるとなると、ものすごく広範囲の勉強が必要になります。ゲームって物語がありますよね。その世界観とか物語って、どこから出てくるのか。それは、これまでの人間の歴史から出てくるわけです。そういう意味では、歴史、宗教、文化人類学といったいわゆる教養が意外と役に立つのです。それから、一義的に、ビジュアルにインパクトがないといけないので、美術的なところも重要で。本物の芸術にたくさん触れることも大事です。本物をすべて知らないとレベルの高いゲームはつくれない。プログラミングだけをやっていればいいというわけではないんです。

「みんなを生きるな 自分を生きよう」
高校生に伝えたくて、デジタルハリウッド大学のポスターにこのコピーをつけました。海城生にも、みんなが思っているより、自分勝手に生きている人の方が幸せだよと伝えたいですね。社会に出た時に、目の前に、とてつもなく自分勝手に自分の好きなことをやって、大成功しているヤツが現れるんです。だから、人の目は気にしないで。人と違っているところを隠さなきゃと思うかもしれないけど、自分を生きればいいのです。こんな長髪でヒゲを生やしていても、大学をつくって学長になれるのだから(笑)。意外と世の中ってそんなもんだよと伝えたいですね。

杉山 知之

デジタルハリウッド大学 学長