平成4年卒

相坂研介

建築家
相坂研介設計アトリエ代表

自由の旗の下で芽生えたものは、何一つ諦めない姿勢でした。

しょぼくれていた僕を変えたのは、楽しく密度の濃い時間

中学受験を親に希望したのは、小学4年生の時でした。クラスで「将来の夢」を書く機会があり、自分の秀でていることはなにか?と考えたんですね。勉強は得意だったので、それを伸ばすような進路をまずは選びたいと。海城を志望したのは、明るい校風に魅力を感じたからです。

海城で良かった。今は心から思っているのですが、実は第一志望ではありませんでした。だから入学当初は内心しょぼくれていて…。でも、すぐに友だちができ、サッカー部にも入り、楽しい学校生活が始まりました。授業も1時間1時間の密度が濃かった。先生方がきちんと準備をされているので、授業が終わると充実感がありました。

それでも「受験には落ちた。大学で挽回しないと!」と思い込んでいたので、塾にも通い始めたんです。するとサッカー部の試合と重なったり、何かを諦めなくてはいけなくて…。もともと僕は学ぶことが好きでした。「昨日知らなかったことを今日知る、こんな楽しいことはない」と。ところが、これでは好きなものも嫌いになってしまう。この状態を6年間続けるのは嫌だと思い、塾はすぐにやめました。でも、学校のカリキュラムがしっかりしていたので、中間や期末テストに向けて自分で勉強すれば大丈夫でした。自由には自主性が伴うことを、身を持って感じましたね。

勉強だけやっていてもダメなんだ。

当時の海城は、スパルタからリベラルへの過渡期。多分、先生方の中でカリキュラム等も含め、さまざまな議論がされていた時代だと思います。本当にいろいろな先生方がいらっしゃいました。忘れもしないのは、高1の山の家。集合場所に着くと、みんな制服を着ていて、僕一人だけが黄色いポロシャツ姿。話をきちんと聞いていなくて、私服で行ってしまったんです。厳しい先生に「おまえは帰れ!」と言われたのですが、担任の先生が「まぁいいじゃないか。バスに乗りなさい」と言ってくださいました。後に、社会科で、総合学習導入という画期的な改革を行った先生方のお一人である目良先生です。以降ずっと、僕は「黄色ちゃん」と、ちゃかされ続けるのですが(笑)、ありがたかったですね。

高2、高3の学園祭では、仲間たちで喫茶店をやりました。海城の学園祭は、生徒の自主性に任されているので、実行委員を中心に、自分たちで企画運営を行います。先生方はまるで口を出しませんので、教室中の壁や黒板をきれいな壁紙で貼り替えて…(今から思うと、壁がどれほど痛んだことか)。でも、メンバーが自分の個性を活かしつつ役割を全うし、大勢のお客さん(女子高生)を集めました(笑)。

その時の友人とは、今でも交流があります。特に仲の良い数人は、それぞれキャラクターも違うし、秀でている分野も違う。でも、みんな「自分にしかできないことをやろう」というタイプで、お互いに一角の人物だと一目を置いていました。自分に足りないところを知る、鏡のような存在でしたね。そんな存在があったからこそ、勉強だけやっていてもダメだということに、早くから気づくことができたのかもしれません。

また、高校時代は剣道部に所属していました。小学生のころ時代劇にはまって以来、侍に憧れを抱いていましたから、海城は武道が必修で嬉しかった。「いつ死んでも悔いのないよう、精一杯今を生きよ」という武士道の精神は、常に過去より今が最高の自分でいたいと日々を重ねる僕の生き方に、大きな影響を与えていると思います。

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「受かったら儲けもん」 そう臨んだ東大受験

小さいころから、物をつくることが大好きでした。だから、職業は形をつくって色を選ぶ仕事なら何でもいい、くらいに思っていました。具体的に進路を考え始めた高2の時には工業デザイナーになりたかったのですが、いろいろ調べるうちに、選択肢もカリキュラムも多彩で、多種多様な学びができそうな「建築」という分野を知りました。デザインの対象として一番大きい「建築」を学べば、家具や文具へとスケールダウンもできるはず。そう考えて、建築学科を志望することにしました。

東京大学を受けたのは、学年主任の先生に勧められたからです。自信があったわけでもないですし、「こんなにやりたいことばかりやって、楽しい高校生活を送っているんだから、受かったら儲けもん。落ちても仕方がない」くらいの気持ちでした。何事も悔いがないようにすべてやり尽くせば、一つ失敗しても仕方がないと割り切れる。そうして緊張せずに試験に臨めたことで、現役合格できたのだと思います。

東大しかないと決めきっていた人や、親から東大に行けと言われて入学してきた人の中には、それが自分の存在理由になっているような人もいました。入学後には目標がなくなってしまい、そこから手探りを始めているようでした。だから、東大を目指す人たちには言っておきたいですね。それだけを目標にしたらダメだよと。

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虹色の人生を生きる

大学卒業後は、安藤忠雄さんの下で働き始めました。海城は文武両道の学校ですけれど、安藤忠雄建築研究所も武芸の道場のような雰囲気で、僕は修行のつもりで入所しました(笑)。ここでは、建築をやっていく精神力や人との信頼関係の築き方、専門的なところでは、驚きや心地よさを生む空間設計の基本を叩き込まれました。

医者が人間の内側をすべて扱うのだとしたら、建築家は人間の外側をすべて扱います。美術館や公共施設のプロジェクトを経験し、独立後も、住宅や家具から、ビルや保育園まで幅広く設計してきました。今後も、もっと大きな施設をいろいろ手がけたいと考えています。

高校時代に、形をつくって色を選ぶ仕事なら何でもいいと思っていましたが、建築家は、身の回りにあるすべてのものを手がけることができる仕事。そのデザインで、人々の生活をより快適に、ハッピーにすることができると思っています。だから、この分野を選んで本当に良かったと思っています。

僕のモットーは、人生のあらゆる側面を充実させること。華やかでも一色しかない「バラ色の人生」より、まんべんなく鮮やかな「虹色の人生」を送りたいと思っています。そうした思考が育まれたのが、きっと海城で過ごした日々かと。生徒たちの自主性に任せながら、いいところを見ていてくれる懐の深い学校だと思います。

だから、後輩の海城生にも、一日一日を充実させてほしいですね。勉強もして、スポーツもして、恋愛もして、趣味にもいそしんで…。今も実際、サッカーの例えが講義に役立ったり、育児の苦労が設計に活きたりしています。それに、打ち合わせでは、いかに建主の気持ちに寄り添えるかが大切。だから、恋愛をして女の子の気持ちをくみとる努力も、きっと大切な経験なんです(笑)。

 

相坂 研介

建築家
相坂研介設計アトリエ代表