昭和59年卒

立川談笑

落語家

恩師と出会い「先生」を目指し 談志と出会い「師匠」になった

私の中では負担に感じていましたね、海城に入ることになって。本当は都立高校に行くつもりでしたが、当時の学校群制度によって、第一志望ではない学校に振り分けられてしまったんです。
そうしたら、親が「海城の方がいいから、海城に行きなさい」と。
親父はそのころ、鳶の親方、母は看護師として一生懸命働いて、私たち三兄弟を育ててくれていたので、私立という学費のかかるところに通わせてくれるということに負い目を感じました。

入学してみて、元海軍予備校なんだなというのは、ボディブローのようにじわじわと感じましたね。単に、沿革としてというのではなく、何か伝統というか、息吹が残っていると強く感じました。

_H2A1972

体育系教師陣

先生方も強烈な方がそろっていました。
まずは、英語の先生。野球部の顧問をされていたんですけど、すごくおじいちゃんで、片目が義眼だったんですね。
のちのち聞いてみると、特攻隊の生き残りだったという話でしたが、いつも背筋がピンと伸びていて、とても厳しくて。ドン!と教卓をたたいて、カッと生徒を睨み付けて、「吉田っ!」と。
それで、5、6人の生徒がビクッとなる。吉田は睨み付けた先ではなく、まったく違う方向に座っていたりしたんですけど(笑)。

それから、柔道の先生に剣道の先生。海城は、昔から武道に力を入れていて、私自身も柔道部に入っていました。お二人とも、まだ20代。
特に剣道の先生はとてもユーモラスな方で、「剣の道を究めるために結婚しない」と言っていました(笑)。現在は八段を持ってらっしゃるそうですが、当時から、こと剣道になるとかなりマジでしたね。

そして、生物の教員で空手部顧問の先生。体格は小さいのに、すごく強くて。我々は陰であだ名で呼んでいました。エピソードもたくさんあるんですよ。この生物の先生と柔道の先生が歌舞伎町をパトロールしていると、よく警察官に職務質問されるとか。ある中間テストの日には、二階の教室でテストを受けていた生徒が、窓の下を通りがかったこの生物の先生を見つけて、この先生のあだ名を言ったら、先生がバーッと駆け上がってきて、試験中にもかかわらず、ドアをバーンと開けて、「お前ら、廊下に並べー!」と。試験監督の先生にも「お前が一番悪いんだ!」と言っていましたね(笑)。

私は体育教官室に入り浸っていて、かわいがってもらっていましたが、当時は体育系教師による生活指導が厳しかったですね。後に、少しずつその厳しい生活指導は鳴りを潜めることになるんですけれども。

自分の限界。自分の将来。

高校生活は、柔道一色と言ってもいいような三年間でした。昼休みもパッと飯を食うと、すぐ柔道場に行って、ラジオを聞きながらベンチプレスをしたり。一番きつかったのは、“かけ”という稽古。
ある一人が、次々と相手を変えて、技の掛け合いをするんです。ボロボロになって、へこたれそうになるんですけど、そこで、周りのみんなが「がんばれ」「がんばれ」って一生懸命、声をかけてくれる。
もうダメだと思ったときに、バーンと技が出たりする。辛くて自分で限界だと思っても、さらに先がまだあるんだって思いましたね。
高3のときには主将を務めました。そして、副主将が二人。…以上、柔道部は三名。キツくて、みんな辞めていきました。でも、私は柔道が好きで。
技の突破点みたいなものがわかってからは、楽しくて仕方なかった。顧問の先生も元気はつらつとしてらして、柔道部では、元気、バイタリティー、生命力というのを特に培っていただきました。

勉強は、学校の授業や復習くらいでしたね。
当時はあらかた予備校に通っていたんですよ、運動部の連中も含めて。学費の関係で後ろめたさを抱えている私としては、なんで学校の勉強を一生懸命やらないのに予備校なんだ、と反発を覚えましてね。
一度、友だちに予備校の授業に連れていってもらったんです。すると確かに、私学でも教えないむずかしい細かい授業をやっていて、それをありがたがる気持ちもわかる反面、これは試験に出ねぇぞと思いました。もちろん、それを完璧に吸収して、すごく高みにいく生徒もいるんだろうけど、そうでない連中はこの細かい高度な情報に溺れちゃうんじゃないかなと。これは商売だなと思いました。
だから、私は予備校に行かないというのを決心してしまったんですね。

将来は弁護士か検察官になろうと思ったのが高2のとき。最初は、お医者さんになりたかったんです。でも、医者になるには算数ができないといけない。
実は、入学直後の面談で担任の先生に、入試の結果を見ながら「お前、数学最低だな。この点数だと普通はウチには入れないんだぞ」と言われて「すみません。私、数学苦手で」と弁明すると「バカ。お前の場合は数学じゃない、算数が苦手って言うんだ」って(笑)。
この先生は国語の先生で、冷静だけどすごくアツくて。論理的で、人の心を深く考える、感じようとする人で、尚且つ伝える力も強い。とても素敵な方で、私の尊敬する恩師であり、法学部に進むきっかけでもあるんです。

当時、課外授業として受験向けの特別補習があり、この先生も小論文のクラスを受け持たれていましたが、小論文が必ず必要な大学を受ける人しか受講できなかったんですね。私は是が非でも受けたかった。それで、小論文が必要なところを探すと、慶応の法学部は国語の代わりに小論文だぞと。
元々、何か人の役に立ちたくて、お医者さんになりたかったので、それに代わるような人助けの仕事をと、ここで法律家を明確に意識するようになりました。
それで、慶応、早稲田、中央の法学部を受験しましたが、すべて不合格。浪人することになりました。

_H2A2024

自称浪人生

浪人生は普通、予備校に行くわけですよ。でも、自分の努力が足りなかったことで、また親に経済的な負担を強いるのかと後ろめたく感じて、予備校には行きませんでした。
自宅で勉強する傍ら、とりあえず一年間は無駄飯食いなわけですから仕事を始めたんですね、初めての。新鮮でしたね、マルイ錦糸町店でオバちゃんたちに交じって検品とかしていたんですよ。社員旅行や全店対抗運動会にも参加して、とてもいい経験になりました。

家で勉強するのに、どうしても自堕落になってしまいますから、自分以外でタイムスケジュールを組んでくれるものを活用しました。
その一つがNHKのラジオ英会話。マーシャ・クラッカワー先生を、とにかく大好きと思い込むことにしてね。先生の声が聴きたい一心で6時45分には必ず起床。
アルバイトに行って、社食でお昼を食べて、15時くらいに帰宅して勉強する。もちろん、給料は家に入れて。夏から日数を減らして、秋くらいまでですかね、仕事をしていたのは。

勉強方法も自分で考えました。受験に必要なのは、合格するために必要な点数を取ること。そのために、過去問と自分が教材にするものを全部比較した上で、教科書とプラスαの参考書を選定しました。
そうして、例えば英語だったら、単語、熟語、構文だとかを厳選して、完全に頭の中に叩き込もうと考えました。そこで、“大量暗記術”を編み出したんです。
自己流で勉強していましたけど、本当に心細かったですね。高卒アルバイトなわけですよ、外見上は。大学受験と言っているのは私一人だけで、“自称浪人生”なんです、予備校生でもないというのは。だから、すごく不安な毎日でしたね。

一浪して迎えた受験でも、現役の時とまったく同じ三校を受けました。もし全部ダメなら、私はお勉強には適性がないんだ。だったら、格闘技に興味があるから、プロレスラーになろうと考えていました。
そして迎えた合格発表。まずは、中央、慶応がダメ。じゃあ、当然ながら、最後の早稲田も無理だろうと。すっかりプロレスラーになるつもりで、家ではずっとヒンズースクワットに励んでいました。
すると、合格通知が届いて。すごく報われた感じがしましたね。

弁護士のはずが落語家に

当時の大学生は、チャラチャラ遊んでやがってというイメージが強かったですが、私は司法試験受験サークルに入って、1年生の時から、重たい本をたくさん持って毎日勉強していました。
あまりにも勉強が好きで、大学に六年間通ったほどです(笑)。実は、第二外国語のスペイン語に苦労しまして。担当教員がものすごく厳しくて、早稲田大学法学部スペイン語学科なんて言われてましてね。就職先が決まっているのに、スペイン語を落とされて卒業できない7年生、8年生が集う再履修のクラスは恨みの塊のようでしたよ(笑)。

スペイン語をようやくクリアできたのが、6年生のとき。一般教養の修了により、第一次試験免除の資格を得て、晴れて司法試験に臨みました。が、結果は不合格。
返ってきた成績を分析したところ、少なくとも合格までにあと2、3年はかかるだろうと考えました。
しかも一発勝負で不安定ですし、絶対受かると言われている人が落ち続けたりするのを目の当たりにして、ちょっとこれはギャンブルだなと思い始めました。
そこで、しばらく司法試験は店ざらしにして、今、やりたい仕事は何か、進むべき方向はどこかというのを完全にフリーな状態で考えてみよう。
そう思い、世間を見回していたんですね、予備校講師をしながら。その時に、ビートたけしのギャグをつくってきた放送作家の高田文夫先生が落語家として活動されているのが目に留まったんです。
従来の古典落語に最新の時事ネタなんかを突っ込んで。落語ってこんなにおもしろくなるんだと抱腹絶倒でした。
その落語の可能性というのかな。新しく進化していく落語の姿を見せられて、これはおもしろいぞと。でも、高田先生に続く人がいない。落語家はたくさんいるのに。
じゃあ、その後ろに自分が連なってもいいのかな。そう思いました。才能だとかが関わる世界ですから、向いていなかったら司法試験に戻ってきてもいいし、まずは一回チャレンジしてみようと。

そこで、高田先生の師匠が立川談志で、どうやらすごい人らしいと、談志の存在を知りました。確かにおもしろいし、そして、深い。
落語とは、単なるお笑いだとか伝統芸だとかいうのではなくて、その奥に人生観だったり、人が生きていく上で大切なものがたくさん詰まっているというのを思い知らされたんです。
それで、談志のもとに入門しました。27歳のときです。

先輩はみんな年下でしたからね。理不尽な思いもしました。救いだったのは、談志が「俺のところは年功序列ではなくて、実力主義。
それも、自分の勝手だとか選り好みで出世させるのではなくて、できるだけ客観的に、身に付けるものを身に付ければ、昨日入門したヤツでも、すぐに二つ目に昇進させる」と言っていたことですね。
その身に付けるものというのが、古典落語50席、小唄、都々逸といった歌舞音曲、講釈、太鼓。古典落語だとか、覚えるものに関しては、自ら編み出した大量暗記術で、すぐに覚えちゃいました。
物を覚えるには、もう一つ、大事なことがあります。それは、好きになるということ。
音曲なんかも、なかなか好きになれなかったんですけど、あちこちの中央図書館や国立演芸場で、カセットやCDを借りたり、資料をたくさん集めたりしながら、何かとっかかりを探して、とにかく好きになろうとしました。

こうして、1年ちょっとで二つ目になりました。
10年くらい手こずっている先輩たちをすっと追い抜いてしまったので、先輩たちには『立川談志 傾向と対策』なんて作って、配ったりもしましたね。やっかみもすごいですから。

師匠の談志はものすごく強烈な方でしたけど、一番印象的なのは「俺を信用するな」と言っていたことです。
自分の価値観でも何でも、ものすごく強烈に押し付ける人でしたけど、そんな俺を信用するなと言っていました。もう、とことん懐疑的というか。世の中で良いとされているものも、正義とされているものも疑ってかかれと。それは、軍国少年だった談志が、あの敗戦を挟んで価値観がひっくり返ったのを目の当たりにした体験からくるものだったと私は思っています。
だから、世の中がいいと思っているものなんかあてにならないんだ。つまりは、自分の目で、自分のセンスで判断しろ。
これがウケるからやるんじゃなくて、自分がやりたいから、自分がいいと思うからやるんだということです。

落語家はストレス解消を手助けする職人さんだと思っています。ストレスだとか、あるいは世の中の歪みだとかを、落語を聴いてもらうことによって、「自分はこれでいいんだ」という癒しを与える。
談志は『業の肯定』という言い方をしていましたけれども。人間は怠けたいし、金儲けになるなら悪いことだって本当はしたい。それを肯定した上で、社会的規範を構成している。
その前提を無しにして、「こんな欲望を持っている私って悪いヤツ」と思ってしまうと、ただの自己否定になっちゃいます。
落語には、本当にダメな人間がたくさん出てきます。それを「いいんだよ、ダメで」「人間は欲深いんだよ、勝手なんだよ、自分が一番大好きなんだよ」。
そう肯定してあげるのが落語なんです。
_H2A1984

好きなものを貪欲に増やそう

海城生におすすめするのは、好きなものを増やすこと。貪欲に増やす。たくさんのことに興味を持って、どんどん何でも好きになろうということです。
例えば、アニメ好きならアニメだけ、ゲーム好きならゲームだけ、鉄道好きなら鉄道だけというように一つのジャンルに絞っちゃうのはもったいないですよ。楽しいものは、世の中にはたくさんありますから。
音楽でもいいし、映像でもいいし、あるいは地方の文化でもいいですし。好きなものの端緒をたくさん増やして、好きなものを増やしてほしいですね。
とかく勉強を一生懸命する子って、そういうところを削ってしまいがちなんですよね。私自身も、大好きだったけど、一時期の受験勉強に没頭するあまり、遠ざかってしまったものがたくさんあって。『好きなもの』というのは、生きる上での力にもなりますし、楽しみにもなりますよ。

立川談笑

落語家