中・高生時代について

“地力”“知力”を育てる授業をやらねば

社会(公民) / 福島 俊和

Q1 先生は中学生・高校生時代どんな生徒でしたか。

今もって自分が中高時代にどんな生徒だったかを自分自身で表現するのは、あの頃を思い出して客観的に捉え直してみるというのが何より恥ずかしいというのが大きいんでしょうけど、難しいなあと感じてしまいますね…。

ちゃかちゃかした生徒だったと思います。何事にも首を突っ込むくせに、飽きて興味が無くなると見向きもしない、自分勝手でわがままなところがありました。あとは、調子に乗ると周りが見えないし、相手の気持ちを考えずにずけずけとものを言うところもありました。学習面では、負けず嫌いでプライドが高かったと思います。知的好奇心はだいぶ強い方で、将来の夢として“学者”への憧れはありましたが、「学問」へのひたむきさとか真摯さはもちあわせていなかったので、「ガクモン」どまりな生徒だったように思います。

こうやって挙げてみて、改めて思いましたけど、“中二病の長患い”というか、結構イタい奴でしたね。

 

Q2 先生の中学校・高校時代の今に繋がる思い出を教えてください。

これも今となっては恥ずかしい思い出に入るのですが、高校の入学文集で「教師に求められる素質とは~」といったような“教師論”をぶった記憶があります。中学3年生のときの国語の先生がいわゆる“国語の授業”をやらないタイプの先生で、「効率の良い授業で最良の結果へと生徒を導くのが教師の使命だろ」と偏った正義感から当てつけとして文集に寄せた、というようなことでした。本当に面倒な生徒でしたね。それなのにその時分はドヤーってしてたので、イタい思い出です。

さて、その先生ですが、多数決とは〜といった評論文を扱う授業で、テキストの解説そっちのけで、1950年代の米映画『十二人の怒れる男』を観るような授業だったんですよ。当時は、なんでテキストの読み方をやらないんだ!現代文の授業だろ!と勝手に怒りをため込んでたのですが、教師になってから気付いたのは、自分が教壇から生徒たちに伝えたいことって、そういうものの単なる読み方論ではなくて、その題材の背景に潜む根源的な原理とかそれらの二律背反とか、題材では自明のこととされちゃってるんだけど自分はそうじゃないんじゃないかなって思うこととか、そういうことなんですよね。だから今なら、そのときの先生は「多数決は結果の正しさを担保しない」とか「それでも我々が多数決を採用するのはなぜなのか」とかそういうことを伝えたかったのかな、となんとなく分かる気がします。

同じ先生ですが、高校1年生の古文でも「信貴山縁起(絵巻)」の絵巻部分のコピーを延々配って「宇治拾遺物語」の対応する説話を参照していったり、高3の現代文でも石牟礼道子の『苦海浄土』を丸々一冊配ってずっとそれを読んでいく…というような授業でした。自分が教員になって、正直受験だなんだって観点からしたらもっといろいろと別のやりようはあっただろとは思うんですけど、でも一方で受験に還元できる云々っていうのだけが中高の授業じゃないだろ、という思いもありますね。大学に受かるための授業なんかではなくて、生徒のこれからの人生をずっと“知”として支えてくれるようなそういう“地力”“知力”を育てる授業をやらねばという自分の意識って、元を辿っていけばその中高時代の経験なのかなと考えています。

もう一つは、運動会や文化祭で組織の動かし方とかリーダーシップを学んだことでしょうか。運動会では、高3時にクラスの10人ぐらいで中2指導の係をつくってそのチーフをやったりしましたし、文化祭では中1から古本市の運営に携わって、高2時には同級生3人で後輩を指導しながら一万冊以上もの古本を扱う企画を乗り切ったりしました。最初は先輩たちのやり方を見よう見まねでやってみて、それでだめなところとか一杯出てくるんですけど、それを同級生でああだこうだと議論しながら変えていって、最良の結果とかパフォーマンスを求めて悪戦苦闘するわけです。伝統的にあるポジションなんだけど試合の動きとかを見てると実はもっと自由に動けるように担当範囲を広げたほうがいいんじゃないかとか、あのときは教員の側が引いてくれて自分たちの意見が通ったらから今度はちょっとこっちが我慢しようとか、自分たちでは勝手に変えられない規定なんだけれどもそれをどう解釈すれば自分たちがやりたいことをやれるのかとか…。ともかく、人と膝を突き合わせながら協力して、ときには対立もするんだけれども、次々と降りかかる困難を、なんとかひとつずつ解決していく毎日。行事の前後はそんな日々でしたね。それって、マニュアル的な対応では日々が回っていかない“学校”という場を生徒の側から見ていたといえるわけで、教師になってからもやっていることはそんなに変わらないのかな…。

そんななかでもやっぱり大事なのは、自分たちのやってることに“理念”というか、“大義名分”というか、そういうのを掲げながらやっていくっていうのが、相手を説得したりだとか仲間の凝集力を高めたりだとか、さまざまな局面でうまく効いてくるっていうことなんですね。場当たり的なロジックじゃそこそこまでいけても。最後にはダメになるんだな、って。教員が学級を運営していく上での実感もまさにそれで、中高時代からの一貫した原体験なのかもしれません。

福島 俊和

社会(公民) / 福島 俊和