昭和41年卒

市川 正和

日野自動車 代表取締役会長

海城生時代を通じて最も有益だったと思うのは、コミュニケーション能力を培えたこと

部活を立ち上げ、本館で演奏会を開催

私は高校からの海城生ですが、私の世代は受験戦争が非常に厳しく、目指していた都立が運悪く不合格で、第二志望だった海城高校に進みました。当時の海城はとても人気があり、競争率も23倍ととても高かった。受験前からすごい学校だなと思っていました。実際、中学は2、3クラスでしたが、高校は10クラス。1クラスも50名はいましたから、都心にしてはかなりのマンモス校でした。

印象に残っている先生も多いです。私が高2の時の担任が、海城に赴任されたばかりの若い長島先生。当時の海城高校は年配の先生が多かったので、若い先生というだけでも珍しかった。指導も厳しく、とても張り切っておられました。理科教師なのに、毎朝、英単語を1語ずつ覚えさせられて、不意打ちで問題を出されて、答えられないと立たされたりもしました(笑)。教師のみなさんは総じて個性的で、年配といってもとてもお元気な方ばかり。授業にも個性があり、自由な雰囲気で勉強できました。

部活動もいい思い出です。高1で陸上部に入部したのですが、夏休みにケガをして陸上は諦めたんです。その代わり、音楽を始めました。私は中学時代にクラリネットをやっていたのですが、当時の海城には吹奏楽部がなく、私の2年上の先輩に、個人レッスンをしてもらっていたんです。そして3年生になった時に、いよいよ海城にもブラスバンド部があっていいのではないかという話に。私の知り合いの楽器店から中古楽器を集めて、部活の立ち上げに参加しました。昔の本館の階段でキックオフの演奏会をやったりもしましたね。個人的にも文化祭でクラリネットの演奏を披露したり、高校時代は真面目にクラシックをやっていた。今でもクラリネットは現役です。

高校卒業後は、また世代的に大学進学が狭き門。でも、当時の海城は勉強も今よりずっとのんびりしていましたから、私たちも早慶上智あたりに入れればいいかなという感じ。先生から、勉強しろと強制された記憶もないんですよ。年配の先生が多かったこともあり、僕らの時代の海城は、祖父が孫を見守るような教育で。生徒を上から押さえるつけることなく、生徒に応じて方向性を指し示してあげるような指導をいただいてました。ちょっと悪さをしても上から叱るわけではなく、温かいアドバイスをもらえた。3年の時にお世話になった南部先生なんかも聞き上手でね、とてもお優しかったですよ。いい意味でも悪い意味でも、チマチマしたところがない。剣道や柔道が必修で質実剛健な授業もありましたが、総じてとても穏やかで、先生とも親しみ深い学校生活を送れました。

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学校内で幅広い層と交流する場を経験できたことが今の仕事に繋がる

そんなふうに伸び伸びと過ごさせてもらった海城高校時代は、ほんとうにあっという間でした。私はその後、大学を経て日野自動車に就職。経理の事務職から始まり、経営企画、国内事業と海外事業の営業などを通じて全事業を経験し、長く勤めているうちに、いつの間にか会長職になってしまいました(笑)。日野自動車という会社は、けっして大企業ではない。だからこそ企画開発から製造、販売サービスまでが一貫しており、お客様の顔が見えるビジネスをさせてもらえるのです。扱っている車もトラックやバスなど物と人の移動を支える商用車。ものづくりとお客様を繋ぐ、実用、利便の架け橋であるという自負がありますし、非常に手応えのある面白い仕事ですね。

そんな私どもの仕事には、海外での事業にも積極的に取り組んでいますので、いろいろな国や職業、多様な人々とのコミュニケーションが欠かせません。会社内も自動車を製造する職人から営業マンまで、幅の広い非同質人間の集まりなんです。そんな仕事を続ける上で、海城生時代を通じて最も有益だったと思うのは、コミュニケーション能力を培えたこと。学校内で同年代、兄世代、父親世代、祖父世代と幅広い層と交流する場を経験できた。最近は家庭も少子化ですし、学校でも同年代との付き合いが深いので、年上の人、なかでも年配の人の考えを聞く機会が少ない。そうなると視野も狭まってしまい、何か起こった時に追い詰められてしまう。幅広い人たちと触れ合った海城生時代の経験は、実際に社会に出てからの人との付き合いに大いに役立っていると実感しますね。

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海城生であったことを誇りに思える学園生活を送って欲しい

また、私が仕事において最も大切にしているのはオープンマインドです。役職が上だから、年齢が上だからといって威張っちゃいけない。いいたいことを言える環境を作ることで、それぞれの社員が100%、時にはそれ以上の力を発揮できると思うのです。私も社員時代は、新しい取り組みを進めることが多かった。当時の上司には煙たがられていたのかもしれませんが(笑)、イエスマンの集まりでは仕事も楽しくないし、発展も見込めない。これも“今思えば”なのですが、そういうオープンな精神は、海城の校訓にもなっている「フェアーな精神」にも通じているかも知れないですね。

今、海城生を目指している若い人たちも、海城に入ること、海城を卒業して一流の大学に入ることがひとつのブランドとなっているのかも知れません。でも、誰かが作ったブランドに飛びつくのはつまらないし、ブランドにぶら下がるだけでは、みなさんが生きた証はけっして得られないと思うのです。せっかくの青春時代を、無味乾燥に過ごすのではなく、「僕が海城をもっといい学校にしてやる!」くらいの気持ちで、海城生であったことを誇りに思える学園生活を送って欲しいと願います。

市川正和

日野自動車 代表取締役会長