古典芸能部・ムーラン班調査続報(最終報告)

2011.11.05

ムーラン海城公演に役者として御出演された小説家の柴田悦男氏。公演以来、実に65年ぶりにご来校を頂きました(写真1)。
「いやぁ、立派な校舎になられましたなぁ」と感慨深い面持ちで校舎に入られました。
氏は、海軍横須賀への召集からおよそ一年で敗戦となり、読売新聞の広告で募集のあったムーランルージュ新宿座に応募したのが昭和21年の9月頃。実に千名余の応募者から選ばれたのは女子30名、男子10名だったそうです。
「海城での公演は今なお、記憶にありますよ。実はあの時はですな、私は座員になってから間もないときでしてね。それに、私のムーラン在籍は実のところ、半年に過ぎないのです。その後は召集前に勤務していた会社で技術者としてサラリーマンに戻りましたからね。退座した訳ですか?それはね、とにかく食べられないんです。なにしろムーランでの月給はたった300円でしてね(編集子注:この頃、コーヒー一杯の相場が5円)。会社からも戻ってこいと言われましてね。その短期間に終わった私のムーラン時代における唯一の外部公演がここ海城学園でのものというわけでしてね」
「あの頃のムーランは俳優踊り子文芸部その他総勢80名ほどの一座でしてね。こちらへは一座総出で伺った記憶があります。幹部達は新宿座から車で行きましたが、私らは、歩きましてね」

 (写真1)


「校舎に入って,公演会場は広いところでしたよ。講堂だったような・・・えっ?剣道場だったのですか。あぁ、なるほど。言われてみるとそうかもしれません。とにかく会場をところ狭しと生徒さんが入っていましてね、その生徒さんたちがそれはそれは熱狂的に迎えてくれましてね。私はね、内心、鼻高々でしたよ。あぁ、こんなに喜んで迎えてくれて、有難いことだ、役者になって本当によかったな、と思いましたなぁ」
「演目ですか?まず、踊り子たちのレビューがありましてね。我々は、タップダンスの入る時代劇だったような気がしますなぁ。えっ?舞台は教壇での急ごしらえだったのですか。じゃあ、タップは踏めないでしょうな。あの頃、“極付 国定忠治という芝居が当たっていましてね。それだったような気もしますなぁ(編集子注:明大講師中野正昭氏の著書「ムーラン・ルージュ新宿座」(森話社・刊)によれば、昭和21年11月1日から10日までの通常公演ではこの“極付国定忠治”(斎藤豊吉作・演出)がかけられていることが判明。ゆえに、海城でも同作品を演じられた可能性が極めて高いと考えられる)」
「この日、こちらでの公演が終わってからですか?えぇ、恐らく新宿座に戻って夜の部を勤めたと思います(編集子注:となると、文化祭が午後2時か3時に終わったと仮定するのが順当な線で、新宿座の夜の部が6時からゆえ、海城での公演は3時から4時あたりだったとなるはずである)」
「強行軍ですって?いえいえ、一年中、とにかく忙しい劇場でしたからね。
海城で公演した理由や出演料ですか?いや、それは皆目分かりませんなぁ。なにしろ、こっちは新入りでしょう。そういったことまではとてもとても耳に入りませんなぁ。幹部達は仰ぎ見る存在でしたもの。その中でやはり、明日待子さんはね、まさに輝く明星でしたなぁ。いつも付き人がいましてね。とは言え、気さくな方でね。憧れました。
支配人の佐々木千里ですか?この方はね、神様みたいな存在でしたよ。こんなことがありましてね。私みたいな新入りは佐々木先生と話をしたり、直に指導を受けるなんてことはなかったんですが、たまたまね、当時幹部の由利徹さん(月給が柴田さんの実に30倍だった由)が、歌舞伎でよくやる、足をガクガクさせながら進む演技ができませんでね、困っていた横に私がいたんです。そうしたら、佐々木先生が、こうやるんだよ、とやってみせましてね。これが絶妙でしてね。いやはや、やはりこの人はマネージメントだけではなく、役者としても大した方だ、流石、浅草で修業(カジノフォーリーを経て玉木座支配人)されただけのことはあると胸打たれましたよ。
後の大歌手春日八郎さん(当時は渡部実)とも舞台を共にしたことがありますしね。好人物でした。寅さんのオバちゃん役が当たった三崎千恵子さんも光っていましたね・・・。そんなあたりでしょうかね、わたくしがお話できるのは。お役に立ちましたかね?」と仰る柴田氏(写真2)。
懸案の出演料の問題こそ分かりませんでしたが、新たな事実に加え、これまで不確かだった幾つかのことが裏付けを伴って確かなものとなりました(文末にこれまでに判明したムーラン海城公演の様子をまとめます)。部員一同、深く感謝する次第です。
そして、なにより、もうじき米寿になられるという氏のご記憶の確かさには部員ともども驚嘆するばかりです(バラエティの挿入歌の数々を今でもよどみなく歌われるのです・・・)。 

 (写真2)
「最後に海城公演に限らず、在籍時の新宿座の秘話をお聞きしたいですと?そうですなぁ・・・。あっ、これはどうですかな。海城公演の頃にですな、“加藤”と名乗る少女が母親と一緒に新宿座に来ましてね。母親が、ちょっとでいいからこの子に舞台で歌わせてやってくれと言いましてね。舞台がはねた後に、しばらくお待ちくださいと場内にアナウンスをして観客を足止めさせた上で、改めて幕を開けて彼女に歌わせたんです。それを私は、舞台の袖から見ていたんです。その時は、そう関心はなかったんですがね。それが翌年、あれは横浜国際劇場でしたか、天才少女歌手現る、という感じで一躍、名が売れたときに、あっ、あの晩のあの娘だ!となりましてね。そう、これが後に国民的な大歌手となる美空ひばりの幼女時代のひとこまというわけです。彼女のムーランへの登場はこれっきりです。ムーランの関係者といってもあの晩、あの現場にいた人はそんなにはいないですしね。ムーラン関係者の多くが鬼籍に入っている今、私くらいなもんじゃないですか、(あの場面を見た)生き残りはね。これは秘話になりませんかなぁ」と淡々とお話される柴田氏。
これは秘話なんてものじゃございません!大変なスクープに思われます。ましてやそれを直に見た現存者が氏だけという今日、古典芸能部員がとらせて頂きました本取材の録音は実に貴重なものになることと思われます。
新宿座在籍者名簿はキングレコードが刊行していますが、そこに載っていない、この美空ひばりのような、一時的にでもムーランを通過したビッグネームは、他にもまだ歴史に埋もれているのではないでしょうか(例えば、クレージーキャッツのリーダーであるハナ肇が戦後のムーランにある期間、在籍していたはず、とは今夏の我々古典芸能部の行った女優の大空千尋さんや滝輝江さんへの取材でご両所よりご証言を得ています)。
柴田先生、このたびはご足労を頂きまして本当に有難うございます。大田区池上のご自宅へお送りする道すがら伺った素敵なお話の数々も印象に残りました。部員ともども噛みしめたく存じます。
ともあれ、約四ヶ月に渡って行ってまいりましたムーラン海城公演に関する調査もどうやら終わりが近づいたようです。
最後に,ムーラン海城公演の概要をまとめておくことにします(確定事項は◎,確度は高いが推測の域を出ないものは△,今のところ判定の仕様がないが興味深い研究課題☆)。いつの日か,☆が◎になることを期待して・・・
1.公演日は、昭和21年11月2日(土)◎
2.時間は、午後3時頃から1時間程度△
3.場所は、当時の剣道場◎
4.招聘者は、中学5年生であった八尾俊道氏◎
5.招聘には、本校に学んだ作家菊岡久利が関与☆
6.演目は、レビューはフラダンス・オリエンタルダンス等◎、バラエティは極付国定忠治△
7.一座総出で来校した◎
8.佐々木千里のピアノで幕が開いた△
9.終戦で使用禁止となった大日本帝国地図で遮蔽幕を作った△
10.教壇で舞台を作った◎
11.終演後、佐々木千里と本校教員(可児虎夫教諭?)が酒宴を挙げた△
12.硬派教育でならした本校が、この時期にムーラン公演を許可したのはGHQへのアピール☆
13.出演料は本校久米川農場での収穫物☆
                           (古典芸能部顧問)